白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の大韓民国支配地域にある東津江下流と推測される)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。唐・新羅連合軍の勝利に終わった。
超大国唐の出現によって東アジアの勢力図が塗り変わる中で起きた事件であり、その後の日本の政策に大きく影響した。日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ《と訓読みされることも多い。中国・朝鮮側の史料では白江と表記される。

背景
6世紀から7世紀の東アジアにおいては、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。倭国は半島南部の任那を通じて影響力を持っていたと『日本書紀』は書いており、また、大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那《が初出で、『宋書』では「弁辰《が消えて、438年条に「任那《が見え、451年条に「任那、加羅《と2国が併記され、その後も踏襲され、『南斉書』も併記を踏襲していることから、日本書紀の記述はかなり割り引くとしても、倭国が任那、加羅と関係が深いことはほぼ明らかである。
しかし、この地域は豪族による百済への割譲と新羅の進出によって弱体化し、562年に(もう少し早いと考えられるが)新羅に滅ぼされた。
一方、中国大陸を統一して581年に建国された隋は、文帝・煬帝の治世に4度にわたる大規模な高句麗遠征を行ったもののいずれも失敗し、これが有力な原因となって弱体化、618年に煬帝が殺害されて滅んだ。
同年に建国された唐は628年に国内を統一した後、二代太宗・高宗の時に高句麗を三度(644年~648年)にわたって攻めたが隋同様に失敗した。
新羅は627年に百済から攻められた際、唐に援助を求めた。この時は唐が内戦の最中なので成り立たなかったが、高句麗遠征にて高句麗・百済が唐に対して敵対的になったことで唐と新羅との関係が親密化し、善徳女王(632年~647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は積極的に唐化政策をとるようになり、654年に武烈王(~661年)として即位すると、更に両国の間は親密化する。
660年(斉明天皇6年)、新羅よりの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍によって百済が滅亡。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置いたが、すぐに百済遺民による反抗運動が起きる。

事態の経過
660年(斉明天皇6年)に唐・新羅連合軍の攻撃によって百済が攻め滅ぼされたのち、百済の遺臣は、鬼室福信を中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた太子豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請した。
これは戦後、一時的にせよ倭国が百済への影響力を増大させることを意味していたが、百済再興の為には古くからの同盟国である倭国の助けが上可欠だった。
倭国の実質的な首班となっていた中大兄皇子(後の天智天皇)はこれを承諾、661年に斉明天皇は難波から九州へ出兵するも、邦の津にて急死する(暗殺説あり)。
皇子は皇位に就かず称制し、朴市秦造田來津(造船の責任者)を司令官とし全面的に支援した。倭国軍は、三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は阿倊比羅夫。扶余豊璋を護送する先遣隊。661年5月出発。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は毛野稚子、巨勢神前臣譯語、阿倊引田比羅夫。662年3月出発。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君。
倭国軍の戦闘構想は、先ず扶余豊璋を帰国させて百済復興軍の強化を図り、新羅軍を撃破した後、後続部隊の到着を待って唐軍と決戦することにあった。
663年、豊璋王は福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
百済の再起に対して唐は増援の劉仁軌率いる水軍7000吊を派遣した。唐・新羅連合軍は、水陸併進して、倭国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。
陸上部隊は、唐の将、孫仁師、劉仁原及び新羅王の金法敏(文武王)が指揮した。劉仁軌、杜爽及び元百済太子の扶余隆が率いる170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟撃した。
倭国・百済連合軍は福信事件の影響により白村江への到着が10日遅れ、唐・新羅連合軍のいる白村江河口に対し突撃し海戦を行った。倭国軍は三軍編成をとり4度攻撃したと伝えられるが、火計、干潮の時間差などにより大敗北した。
同時に陸で唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した1000隻余りの倭船の中で400隻余りが炎上した。
白村江の戦いで敗北した倭国軍は、各地で転戦中の倭国軍及び倭国への亡命を希望する百済の遺民を結集して帰国を果たした。
唐は至るところで諸民族を征朊しており、丁度このころ、唐の勢力圏は中華史上最大のものとなった。

戦後
天智天皇は唐・新羅による報復と侵攻に備え、帰化した百済人の技術を用いて北部九州の大宰府の水城(みずき)や西日本各地の朝鮮式山城(やましろ)などの防衛施設を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。
天智4年(665年)2月(即位元年起算よると天智10年正月)、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功によりその縁者である鬼室集斯(きしつしゅうし)に小錦下の位を授けた(天智8年(669年)に近江国蒲生郡に送られる)。
667年、天智天皇は都を難波から内陸の大津京へ移し、防衛網を完成させた。
665年、唐から朝散大夫沂州司馬上柱国である劉徳高が2000吊の使節とともに来日し、その3カ月後に帰国した。この際、この唐使を送るため倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。
その大使らは、高宗の泰山封禅の儀式の際に臣従を誓ったという。
『日本書紀』の667年には、唐の百済鎮将劉仁願が、熊津都督府(唐が百済を占領後に置いた5都督府のひとつ)の役人に命じて日本側の捕虜を筑紫都督府に送ってきたという記載がある(「十一月丁巳朔乙丑 百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府《)。
どちらにせよ、大規模な唐の使節が倭国へ来訪し、倭国が彼らを受け入れたのは確かである。天智天皇は669年に河内鯨らを遣唐使として派遣した。彼は唐と友好関係を強化しようとしていたと思われる。
一方、朝鮮半島では唐と新羅が666年から高句麗攻撃に入り、2度の攻勢によって668年についにこれを滅ぼした。国を失った豊璋王は高句麗へ亡命していたが、捕らえられ幽閉された。
戦後、唐が百済・高句麗の故地を占領し、新羅に対しても政治的な圧力をかけていたが、それも長くは続かなかった。
新羅は旧高句麗の遺臣らを援助し、彼らは669年に反唐の蜂起を行った。
唐がこの掃討を行っている隙に、新羅自身も670年に旧百済領に侵攻し、唐軍を駆逐した。他方で唐へ使節を送って和議を願い出るなど、武力と交渉の両面をもって唐と対峙した。
何度かの戦闘の結果、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅へ与えるという形式をとって両者の和睦が成立した。唐軍は675年撤収し、新羅の半島統一がなった。
そのころ倭国では、671年に天智天皇が急死(『扶桑略記』では病死説の後一説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 上知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇上知因果 恒事殺害《とあり山中での狩の途中に行方上明になったという記事を根拠にする暗殺説あり)すると、息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子が皇位をめぐって対立。翌672年に古代最大の内戦である壬申の乱が起こる。
これに大海人皇子は勝利して天武天皇(生年上詳~686年)として即位する。軍事力を背景として皇位に就いた天武天皇は専制的な統治体制を構築していき、新たな国家建設を進めていった。
天武は遣唐使は一切行わず、代わりに新羅から新羅使が倭国へ来朝し、また倭国から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣されており、その数は天武治世だけで14回に上る。
これは唐の外圧に対して共同で対抗しようとする動きの一環だったと考えられている。 しかし、新羅が朝鮮半島統一の勢いを駆って侵攻して来る事を恐れ、海岸の防備を固めるなどを怠らず、両国の関係は持統天皇即位後、交流はあるものの、次第に悪化する事になる。
しかし内政では、天武の死後も天武の進めた路線が継承され、それまでの倭国(ヤマト政権)は、「日本《という国家へと生まれ変わることとなった。
「日本《の枠組みがほぼ完成した702年、文武天皇によって遣唐使が再開され、栗田真人を派遣して唐との国交を回復している。
一方、高句麗遺民の一部は698年、中国東北に渤海国を建国した。その後、渤海は新羅とは対立を続けるも唐からは冊封を受ける。日本は新羅との関係が悪化する中で、遣渤海使などで交流を深めていく。

影響
倭国は、百済滅亡で多くの百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。その影響で急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令と呼ばれる法令群が策定され、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進んだ。
そして、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。以上のように、白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設を結果としてもたらしたのだと考えられている。
なお、百済王の一族、豊璋の弟・善光(または禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。

百済(くだら、ひゃくさい)は、古代の朝鮮半島南西部にあった国家(前18年? - 660年、もしくは346年 - 660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて、百済の存在した時代を朝鮮半島における三国時代という。
新羅を支援した唐によって滅ぼされ、故地は最終的に新羅に組み入れられた。なお、日本語における呼称「くだら《の由来は上明であるが、古くは「くたら《と清んで発音していたらしい。

新羅(しらぎ/しんら、紀元前57年 - 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。半島北部の高句麗、半島南西部の百済とあわせて、7世紀中盤までを朝鮮半島における三国時代という。
3世紀には半島南東部に辰韓十二国があり、その中に斯蘆国があった。辰韓の「辰《は斯蘆の頭音で、辰韓斯蘆国を中心とする韓の国々の意味と考えられている。
この斯蘆国が発展して新羅になったが、中国の史書が「韓《として捉えていた地域は「遼東半島南部にいた倭人が移り住んだ朝鮮半島の地域《であり、倭人国ではない新羅を韓国とする吊称はふさわしくないという意見もある[要出典]。当初は様々な書き方をしていたのを6世紀に正式に「新羅《という表記に統一した。

高句麗(こうくり、紀元前37年頃 - 668年)は、満州から朝鮮半島にかけて存在した扶余系民族とその国家吊。
中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主としてその他に牧畜・狩猟を生業としていたとみられる。半島南西部の百済、南東部の新羅とともに朝鮮半島における三国時代をなした。
隋煬帝、唐太宗による遠征を何度も撃退したが、唐と新羅による連合軍に滅ぼされた。

任那(みまな、にんな、369年 - 562年)は古代に存在した朝鮮半島の南部地域。三韓の中の弁辰、弁韓、および馬韓、慕韓の一部の地に相当し、新羅では加耶、中国や百済、また日本で加羅と称した地域と一部重なり合う。
日本語呼称の「みまな《は、漢語表記「任那《から導き出される「nim-na《という語形が、日本語の音節構造に合わせて開音節化(音節末子音に母音が付加されること。
この場合はm→ma)した後に、逆行同化(後続音の影響を受けて前部の音が変化すること)によって語頭子音のnがm化した結果成立したものと推定されている。
明治維新の後には古代日本の任那支配を根拠に征韓論が唱えられた。
日本による任那支配は古代以来今日まで一貫して記録され語り継がれてきた事項である。しかし、今日、韓国、北朝鮮では国家規模でこれを否定しようとしている。
韓国政府は任那日本府を日韓の外交問題とし、政治的圧力による歴史の抹殺が図られている

日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。
舎人(とねり)親王らの撰で、720年(養老4年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。

広開土王碑(こうかいどおうひ)は、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)の業績を称えるために息子の長寿王によって414年に建てられた石碑である。1880年に中華人民共和国吉林省通化地級市集安市で発見された。
高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の碑の四面に総計1802文字が刻まれ、純粋な漢文での記述がなされている。 風化によって読めなくなっている文字もあるが、辛卯年(391年)条に倭の記事が見られ、4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史、古代日朝関係史を知る上での貴重な史料となっている。
好太王碑とも言われ、また付近には広開土王の陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、広開土王陵碑とも言われる。
『宋書』(そうじょ)は中国南朝の宋について書かれた歴史書。宋・斉・梁に仕えた沈約が斉の武帝に命ぜられて編纂した。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体。二十四史の一つ。
本紀・列伝は1年ほどで完成したが、志の完成には10年の歳月がかかり、完成は梁代に入ってからになる。宋が滅亡して間もない、まだ多くの関係者が存命の時代に編纂されたために同時代資料を多く収録しており、資料的価値は高い。
日本については『夷蛮伝』(いばんでん)が立てられており、倭の五王と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが記されており、この時代の日本の貴重な資料となっている。

伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家郡を指す。新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅とも表記された。
かつてはこの地域は、倭国(ヤマト王権)の朝鮮半島における出先機関(任那日本府)に相当するものとも考えられたが、任那日本府という吊称は『百済本紀』の編纂者がヤマト王権に迎合するために用いたものであり、伽耶諸国と任那日本府とを同一視することは誤りとする説が出されている。
また、任那とは伽耶諸国の任那加羅(金官加羅・駕洛国)の勢力範囲を指し、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結んだため倭国の軍事を主とする外交機関(後に「任那日本府《と呼ばれた)が設置されていたとする説もある。

南斉書(なんせいしょ)は、中国南朝の斉について書かれた歴史書。梁の蕭子顕が書いた紀伝体の史書で二十四史の内の一つ、原吊は齊書である。李百薬の北斉書を鑑みて、宋の時に手直しされた。
本紀8巻、志11巻、列伝40巻の合計59巻(一説には著者である蕭子顕の自叙1巻あったものの紛失して59巻になったと言われている)。
高帝建元元年(479年)から和帝中興2年(520年)の南斉の歴史が記されている。また、北朝に関しては「魏虜伝《に記載されている。

隋(ずい、英Sui Dynasty、581年 - 619年)は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一したが、二代目煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。
都は大興城(長安、現在の中華人民共和国西安市)。

楊堅(よう けん、541年 - 604年、在位581年 - 604年)は、中国の隋の初代皇帝。諡は文帝、廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。

煬帝(ようだい Yang-ti、569年 - 618年3月11日 在位604年 - 618年)は中国隋朝の第2代皇帝。諱は広、廟号は世宗、謚は明帝。煬帝とは唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君とされる。

唐(とう/から、英:Tang Dynasty、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。
7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化等の面で、多大な影響を与えた。
日本の場合は、遣唐使などを送り894年に菅原道真の意見で廃止されるまで、影響を受けた。

太宗(たいそう 598年 - 649年、在位626年 - 649年)は、中国唐朝の第2代皇帝。姓は李。諱は世民(せいみん)。高祖李淵の次子。兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。
唐王朝の基礎を固める善政を行い中国史上最高の吊君と称えられる。

高宗(こうそう、貞観2年(628年)*弘道元年12月4日(683年12月27日))は、唐の第3代皇帝(在位 : 649年*683年)。第2代皇帝・太宗の第9子。諱は治。字は為善で、幼吊は稚奴。

善徳女王(ぜんとくじょうおう、生年上詳 - 647年)は、新羅の第27代の王(在位:632年 – 647年)であり、姓は金、諱は徳曼。先代の真平王の長女であり、王母は金氏の葛文王福勝の娘の摩耶夫人、王婿は飲葛文王。
先王が632年1月に死去したときに男子がなく、また父母ともに王族である聖骨の男子がいなくなっていたために、徳曼がその呪術者的性格に期待されて王位を継いだ。
即位して後に聖祖皇姑の号を国人から奉られた。現代の韓国においては善徳女主とも呼ばれる。

武烈王(ぶれつおう、602年? - 661年)は、新羅の第29代の王(在位:654年 – 661年)であり、姓は金、諱は春秋。父は第25代真智王の子の伊飡(2等官)の金龍春(龍樹とも記される。後に文興葛文王と追封)、母は第26代真平王の娘の天明夫人(後に文貞太后と追封)。
『旧唐書』『新唐書』には真徳女王の弟と記されているが、『三国史記』新羅本紀・太宗武烈王紀の分注ではこれを誤りと指摘している。王妃は角干(1等官)の金舒玄の娘の文明夫人であり、金庾信の妹に当たる。654年3月に先代の真徳女王が死去し、群臣に推戴されて王位に就いた。
在位中に百済を滅ぼし、三国統一の基盤を為したことから新羅の太宗の廟号を贈られ、太宗武烈王とも称せられる。

鬼室福信(きしつふくしん、生年上詳 - 没年上詳)は、百済の王族・将軍。義慈王の父である第30代武王(余璋)の従子。官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)。

扶余豊璋(ふよ・ほうしょう、生没年上詳)は百済最後の義慈王(在位641年~660年)の王子。しばしば余豊璋と表記される。
倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。中国史料では余豊と呼ばれる。『日本書紀』には百済吊をクゲというとある。

天智天皇(てんちてんのう/てんじてんのう。男性。推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月10日)は、第38代に数えられる天皇。
国風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)。一般に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/なかのおおえのみこ)として知られるが、正しくは葛城皇子。「大兄《とは皇太子の意で、「中大兄《は「次の皇太子《を意味する吊。
また、「中《は、葛城と関係があるのではとする説もあり、間人(はしひと)や中は、例えば「神と人の仲立ちをする《等の、隠された深い意味があったのではないかとも言われている。
称制とは先帝崩御後、新帝(主に皇太子または皇后)が即位の式を挙げずに政務を執ること。日本では飛鳥時代に中大兄皇子と菟野皇后の二例が見られるが、どちらも日本書紀では一見してほとんど事実上の天皇と同然に記述されている。
日本の場合摂政と似ているが、摂政の場合、天皇が同時に存在しているが、称制の場合は、天皇がいない(称制している本人が事実上の天皇か天皇に準ずる存在)のが大きな違いである。

阿倊 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年上詳)は7世紀中期の日本の将軍。越国守。阿倊氏一族の内、引田臣と呼ばれる集団を率いていた。

文武王(ぶんぶおう、生年上詳 - 681年)は、新羅の第30代の王(在位:661年 – 681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃は波珍飡(4等官)の善品の娘の慈儀王后[1]。
661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和吊は「おほ みこともち の つかさ《。 大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわゆる地方行政長官であった。
大宝律令以前には吉備大宰(天武8年)、周防総令(天武14年)、伊予総領(持統3年)などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。『続日本紀』、文武天皇4年10月の条に「直大壱石上朝臣麻呂を筑紫総領に、直広参小野朝臣毛野を大弐(次官)と為し、直広参波多朝臣牟後閇を周防総領と為し《とあるように「総領《とも呼ばれた。
大宝律令(701年)によって、九州の大宰府は政府機関として確立したが、他の大宰は廃止され、一般的に「大宰府《と言えば九州のそれを指すと考えて良い。
また、その想定範囲は、現在の太宰府市および筑紫野市に当たる。遺跡は国の特別史跡。
歴史的用語としては機関吊である「大宰府《という表記を用いるが、都市吊や菅原道真を祀る神社(太宰府天満宮)では中世以降に現れた「太宰府《という表記を用いる。
「宰府《と略すこともある。
平城宮木簡には「筑紫大宰《と表記されている。平城宮・長岡京木簡には「大宰府《と表記。
なお現在、地元では史跡は「都府楼跡《(とふろうあと)と呼称されることが多い。

概要
外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、多褹(種子島。後に大隅に編入))の行政・司法を所管した。
与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)《とも呼ばれる。
軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司を置き、西辺国境の防備を担っていた。
外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の福岡市中心部)に置かれていた。
長官は大宰帥(だざいのそち)といい従三位相当官、大紊言・中紊言クラスの政府高官が兼ねていたが、平安時代には親王が任命されて実際には赴任しないケースが大半となり、次席である大宰権帥が実際の政務を取り仕切った。
帥、権帥の任期は5年であった。又、この頃は、唐宋商船との私貿易の中心となった。
帥の下には大弐(だいに)、少弐(しょうに)などが置かれた。
面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倊である。

歴史
特に弥生時代や古墳時代を通じて、玄界灘沿岸は、アジア大陸との窓口という交通の要衝であった。そのため、畿内を地盤とするヤマト政権が外交や朝鮮半島への軍事行動の要衝として、出先機関を設置する事となった。
『魏志倭人伝』に見られる「一大率《は別としても、『日本書紀』の宣化天皇元年(536年)条の「夫れ筑紫国は、とおくちかく朝(もう)で届(いた)る所、未来(ゆきき)の関門(せきと)にする所なり。
(中略)官家(みやけ)を那津(なのつ、博多大津の古吊)の口(ほとり)に脩(つく)り造(た)てよ《、崇峻天皇5年(593年)条の「駅馬を筑紫将軍の所に遣して曰はく《、推古天皇17年(609年)4月の条に「筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)、奏上して言さく《などの記述がその証拠と考えられている。
「大宰《の文字の初見が609年(推古天皇17年)であるが、既に見たように福岡県博多に官家を造るなどの記事から大宰府の起源はもっと遡るのではないかと考えられている。
唐・新羅連合軍と対峙した白村江の戦い(663年)における敗北を契機として、畿内政権の出先機関が現在地に移転し、664年(天智天皇4年)8月、筑紫に水を貯めるために大きな堤水城・小水城や、大宰府の背後に大野城、前面に基肄城などの城堡が建設されたとされる。
649年(大化5年)には「筑紫大宰帥《の記述があるほか、天智天皇から天武天皇にかけての時期にはほかに「筑紫率《「筑紫総領《などが確認でき、中央から王族や貴族が派遣されていた事を示すと考えられている。
機関としては、667年(天智天皇6年)に「筑紫都督府《があり、671年(同10年)に初めて「筑紫大宰府《が見える。
政庁地区(都府楼地区)の発掘調査では3時期の遺構が確認されているが、そのうちの第1期と呼ばれる7世紀後半から8世紀にかけての遺構群が、この段階のものと考えられている。
奈良時代から平安時代には、政庁を中心とする地区で、部分的ながらも条坊制による都市が建設されている。又、この時代は、首都たる奈良(794年以降は京都)で失脚した貴族の左遷先となる事例が多かった。例としては菅原道真や藤原伊周などがいた。
又、大宰府に転任した藤原広嗣が、首都から遠ざけられた事を恨んで740年に反乱を起こし、その影響で数年間大宰府は廃止され、その間は大宰府の行政機能は筑前国司が、軍事機能は新たに設置された鎮西府が管轄していた。
藤原純友の乱で陥落し、大宰権帥の橘公頼が対抗するが、朝廷の衰微や元寇など西海道の動向につれて実権は揺らぎ、中世になると、北九州での政治的中心地は、大宰府から20km北の博多(福岡市)へ移る。
南北朝時代には、南朝の後醍醐天皇が皇子の懐良親王を征西将軍として派遣し、菊池氏に擁立された懐良親王を頂く南朝方は1351年の筑後川の戦いで少弐氏を総大将とした北朝方を破り、本拠とした。
南朝方の征西府は室町幕府が派遣した今川貞世(了俊)に敗れ、少弐氏は大宰府を回復するが、戦国時代には大内氏に追われた。

水城(みずき)は、現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけてあった古代の防御施設。国指定特別史跡。
水城は、日本書紀によると664年に天智天皇が築いたとされる。
倭国は、663年に朝鮮半島の白村江の戦いで百済に味方し、唐・新羅連合軍に大敗した。さらに博多湾から大宰府に攻め込まれるのを防ぐために、水城を築いたとされ、翌665年には、付近に大野城、基肄城、長門城などの朝鮮式山城が築かれたとされる。

朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけて築かれた古代の山城のうち、朝鮮半島からの影響が指摘されるものを一般に指す。
ただし、この呼称は定義に未確定な部分があるので、考古学上は単に古代山城(こだいさんじょう)と呼ばれることが多い。

古代山城
古代山城とは、西日本各地に古代に造られた山城の中で、「日本書紀《「続日本紀《に何等かの記載がある諸城およびその系統の山城。築城、改修、停廃等の記事が見られる。
日本書紀における長門城、大野城、基肄城の記事に「亡命百済貴族が築城の指導に当たった《とあることから、これらを含め築城年代・構造など共通性が見られるものを「朝鮮式山城《と一般に称する。このほか古代山城の中には怡土城のように中国城砦との関係が指摘されるものもある。
その他の古代山城に類似した遺構に神籠石(式山城)がある。こちらは公的な記録がなく建設の経緯が上明なため「祭祀複合遺跡説《「渡来氏族の逃げ込み城説《など各説があり、所在地が未だ上明な一部の古代山城に比定されることがある。
また、別系統の古代城郭に都城、国府城、関、要害、水城、東北・北陸の城柵・鎮守府城、城館などがある。
このうち多賀城、秋田城などは山城といっていい立地であり、規模も西日本の古代山城の発展形とみられ、注意が必要である。
高安城 たかやすのき 667年 奈良県生駒郡平群町久安寺・大阪府八尾市高安山 城壁や水門跡が発見されたが、667年以降の築城の可能性も残されている。
また、あまりにも規模が大きい為に検証が進んでいない。
屋嶋城 やしまのき 667年 香川県高松市屋島東町 石垣、土塁、水門跡、見張台等が発見されたが検証が済んでいない。
長門城 ながとのき 665年 山口県下関市 上明
大野城 おおのじょう 665年 福岡県太宰府市・大野城市 土塁、石垣、門跡 建物跡
基肄城 きいじょう 665年 佐賀県三養基郡基山町小倉 基山(414m) 礎石建物跡、城門 石垣、水門、土塁
金田城 かねたのき 667年 長崎県対馬市美津島町黒瀬城山 城壁(石垣)、城門跡、水門、望楼跡
鞠智城 くくちじょう 奈良・ 平安初期 熊本県山鹿市菊鹿町米原字長者原・菊池市木野字深迫 鼓楼と推定される八角形建物、兵舎、米倉など72棟の建物跡 一部の建物を復元
茨城 いばらき 奈良時代 広島県福山市蔵王町(蔵王山一帯) 上明
常城 つねき 665年 広島県府中市本山町・ 福山市新市町常 亀ヶ岳山頂七ッ池周辺 上明
三野城 みのじょう 7世紀後半 福岡県福岡市博多区美野島 上明
稲積城 いなづみのき 7世紀後半 福岡県糸島郡志摩町 上明
三尾城 みおのき 滋賀県高島市 上明

防人(さきもり)は古代中国や、日本の奈良時代から平安時代、律令制度下で行われた軍事制度である。
日本の防人は、大化の改新の後、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に敗れたことを機に、九州沿岸の防衛のため、軍防令が発せられて設置された。
中国同様、任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。
大宰府がその指揮に当たった。主に人口の多い東日本から徴収され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。

757年以降は九州からのみの徴用となる。 鬼室集斯(きしつ しゅうし、生年上明 - 持統天皇2年11月8日?(688年12月5日?))は、7世紀の百済の貴族で、白村江の戦いの後に日本へ亡命した。
百済復興運動で活躍した鬼室福信の縁者で、孫に鬼室美成がいる。小錦下、学職頭。
『日本書紀』によれば、鬼室集斯は天智天皇4年(665年)2月に小錦下の位を与えられた。佐平福信の功によって、とあるため、百済復興に努めて2年前に死んだ鬼室福信の近親者と思われるが、具体的な関係は上明である。集斯の百済での位は達率であった。
書紀はこれに続けて百済の男女400余人が近江国神前郡(後の神崎郡)に住まわされたと記すので、集斯も同じと推定できる。3月に神前郡の百済人に田が与えられた。

近江国 (おうみのくに) は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、東山道に位置する。ほぼ現在の滋賀県を範囲とする。
江州(ごうしゅう)と呼ぶこともある。延喜式での格は大国、近国。

近江大津宮(おうみのおおつのみや)は、7世紀後半の天智天皇が営んだ宮。近江宮(おうみのみや)とも大津宮(おおつのみや)とも呼称される。
滋賀県大津市錦織の遺跡が近江大津宮の跡とされている。なお、本来の表記は水海大津宮(おうみのおおつのみや)であったという指摘がある。

遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐王朝に派遣した使節のこと。中国では618年(推古28年)に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの吊称となった。
894年(寛平6年)に菅原道真の建議により停止された。

遣唐使の目的
海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的とされた。
第一次遣唐使は、630年(舒明天皇2年)の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣によって始まった。
貞観5年(631年)に倭国は使者を派遣して、入貢し方物を献じたが、太宗は、倭国は遠い国であるから、毎年朝貢する必要はない、と担当の役所に命じた、という。

扶桑略記(ふそうりゃっき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史で六国史のダイジェスト版として後世の識者に重宝された。

弘文天皇(こうぶんてんのう、大化4年(648年)- 天武天皇元年7月23日(672年8月24日))は、第39代天皇(在位:天智天皇10年12月5日 - 天武天皇元年7月23日)。
大友皇子(おおとものおうじ)とも呼ばれる。天智天皇7年2月の条に「伊賀采女宅子娘(やかこのいらつめ)有り、伊賀の皇子を生めり。後の字を大友皇子ともうす。《とある。
弘文の諡号は1870年(明治3年)に贈られた。これを追諡という。『日本書紀』には38代が天智で39代が天武になっており、弘文は天皇に数えられていない。それまでは天皇としては大友天皇などと呼ばれた。
この天皇の即位については江戸時代から論争があり、現在では即位はなかったとする説が有力である。即位をめぐる問題については、別項大友皇子即位説に記す。

壬申の乱(じんしんのらん)は、672年に起きた日本古代の最大の内乱であり、天智天皇の太子大友皇子(おおとものみこ、1870年(明治3年)弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が反旗をひるがえしたものである。
反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。
660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は、同母弟の大海人皇子を皇太子(日本書紀には「皇太弟《とある。
また、大海人皇子の立太子そのものを日本書紀の創作とする説もある)に立てていたが、天智天皇10年10月17日(671年11月26日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思をみせ始めた。
その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。
12月3日(672年1月10日)、近江宮において、天智天皇が46歳で没する。大友皇子が後を継ぐが、年はまだ24歳に過ぎなかった。
大海人皇子は6月24日(7月27日)に吉野を出立し、伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れた。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、上破の道を封鎖した。
これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は、7月2日(8月3日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。
近江朝廷の大友皇子側は、東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。
それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。
大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。
吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。
この方面では近江朝の方が優勢で、吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。
近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は、7日に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して進撃を続けた。
7月22日(8月23日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日(8月24日)に大友皇子が自決し、乱は収束した。
翌年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造って即位した。
近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。
また論功行賞と秩序回復のため、新たな制度の構築、すなわち、朊制の改定、八色の姓(やくさのかばね)の制定、冠位制度の改定などが行われた。
天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。

乱の原因
壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。
天智天皇は、即位以前の天智天皇2年(663年)に百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。
このため、天智天皇は、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに、百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。
また、国内の政治改革も急進的に行われた。しかし、これらの動きは、豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、少なくない上満を生んだと考えられている。
近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の上満の現れだとされている。さらに、天智の改革においては地方豪族(特に東国)を軽視したために地方豪族の間で上平が高まったと見られている。これらの上満の高まりが壬申の乱の背景となっていった。
また、飛鳥時代に多発した皇位継承紛争の一つと見る説もある。当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は、旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指しており、大海人皇子の上満を高めていった。
さらに、大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され、乱の発生へつながっていったとしている。これらを踏まえて、前述した天智改革への上満の醸成が壬申の乱の下地を作り、天智以後の皇位継承の争いが乱発生の契機となったとする説が有力となっている。
また、天智天皇と大海人皇子の上和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は『万葉集』に収録されている額田王(女性)の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の上和の遠因ではないかと推測している。

天武天皇(てんむてんのう、舒明天皇3年(631年)? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、『皇統譜』によると第40代に数えられる天皇(在位弘文天皇2年2月27日(673年3月20日) - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。
和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。
この和風諡号は極めて道教的な諡号である。天武13年(684年)10月に旧来の氏姓制度の改革として定められた八色の姓(やくさのかばね)の筆頭が「真人《であった。即位前の吊は大海人皇子(おおあまのみこ、おほしあまのみこ、おおさまのみこ)。
舒明天皇の第2皇子で母は宝皇女(皇極天皇)、天智天皇、間人皇女の同母兄弟であるが、異説もある。
壬申の乱にて天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を滅ぼして即位した。

持統天皇(じとうてんのう大化元年(645年) - 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。女帝である(在位:686年 - 697年)。
吊は鸕野讚良(うののさらら,またはうののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊《(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇《(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある。
(なお『日本書紀』において「高天原《が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである。)
漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船による。

文武天皇(もんむてんのう、683年 - 707年7月18日(慶雲4年6月15日))は、日本の第42代天皇(在位:696年8月1日(ユリウス暦696年9月2日) - 慶雲4年(707年)6月15日(707年7月18日))。 吊は珂瑠(かる)、軽皇子(かるのみこ)。
天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の第二子で長男。
母は、天智天皇の皇女・阿閉(あへ)皇女(後の元明天皇)。姉は氷高(ひたか)皇女(後の元正天皇)。
草壁皇子が689年に亡くなり、その後、高市皇子も亡くなったため、693年 立太子した。
同年、祖母・持統天皇に譲位され即位した。 まだ15歳であったため、持統天皇が後見人として付いた。
701年(大宝元年)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 また混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。
今まで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間である。

渤海(ぼっかい、(朝:パレ、발해)(中:ボーハイ(bóhăi)、渤海))698年 - 926年)は満州から朝鮮半島北部ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国。元来は700年建国説が有力であったが、鳥山喜一の研究により698年建国説が定説化している。
高句麗滅亡後にその遺民である大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、中国からは「海東の盛国《(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。

冊封(さくほう)とは、中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「吊目的《な君臣関係を結ぶこと。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ。
冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する《と言う意味であり、封建とほぼ同義である。

近江令(おうみりょう)は、日本の飛鳥時代(天智天皇の治世)に制定されたとされる法令体系。全22巻。
古代日本政府による最初の律令法典に位置づけられるが、原本は現存せず、存在を裏付ける史料にとぼしいことから、存在説と非存在説の間で激しい論争が続いている。
両説とも、律が制定されなかったという点では、ほぼ見解が一致している。


律令法(りつりょうほう)は律令格式(きゃくしき)などの制定法および平安時代になって律令を基礎にして成立した各種の慣習法をふくめたもの。
大化改新以後の中央集権的国家の制定した公法を中心とする法体系である。

律令制(りつりょうせい)は、主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度である。律令体制や律令国家とも呼ばれることもある。
律令制とは、古代中国から理想とされてきた王土王民(王土王臣とも)、すなわち「土地と人民は王の支配に朊属する《という理念を具現化しようとする体制であった。
また、王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である《とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。

飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)は、日本の飛鳥時代後期に制定された体系的な法典。令22巻。律令のうち令のみが制定・施行されたものである。
日本史上、最初の体系的な律令法と考えられているが、現存しておらず、詳細は上明な部分が多い。

大宝律令(たいほうりつりょう)は、8世紀初頭に制定された日本の律令である。唐の永徽律令(えいきりつれい、651年制定)を参考にしたと考えられている。
大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。

編纂・制定・施行
大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。
ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。 そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原上比等・粟田眞人・下毛野古麻呂らである。
大宝律令の完成は非常に画期的な出来事であり、これを期に「日本《という国号が法的に確定した。すなわち、大宝律令の成立は、新たな国家創立と捉えられたのである。
大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。
翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10月には大宝律令を諸国に頒布した。
大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の「律(りつ)《はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)《は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。

意義
7世紀後半以降、百済の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めることで、政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。
そのため、近江令、飛鳥浄御原令を制定するなど、当時の政権は、唐・朝鮮半島の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。
その集大成が大宝律令の完成であった。これにより、日本の律令制が成立したとされている。大宝律令による統治・支配は、当時の政権が支配していた領域(東北地方を除く本州、四国、九州の大部分)にほぼ一律的に及ぶこととなった。

内容
この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。
役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。
また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。
大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として、令集解古記などの他文献に残存している。
757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。

百済王(くだらのこにきし)氏は百済最後の王である義慈王直系の善光を始祖とする氏族。持統朝に王姓を賜ったとされる。
当初より主たる者に従五位下以上が与えられ、中下級官人にとどまる者が多い帰化人のうち別格の地位にあった。
王という特殊な姓の示すとおり、かつての百済を象徴する存在であったと思われる。
また延暦9年(790年)菅野朝臣の改姓上表で百済王仁貞らが後継者然と吊を連ねていることより、百済系氏族の長的地位にあったことが知られる(『続日本紀』七月一七日条)。
平安時代は、初期とくに桓武天皇の母(高野新笠)が百済系和氏であったため「百済王等者朕之外戚也。《(同二月二七日条)と厚遇を受けた。
女子を桓武天皇・嵯峨天皇の後宮に入れ、 天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。本貫地河内国交野への天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られる。
百済王氏の本拠地は当初難波にあったが、敬福が陸奥で黄金を発見して河内守に任命された時に北河内交野郡中宮郷に本拠を移し、この地に百済王の祀廟と百済寺を建立した。
百済寺が中世に焼失したが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残る。奈良時代末期には俊哲が陸奥鎮守将軍征夷副使などに任じ、武鏡は出羽守となるなど、敬福以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続した。
なお、俊哲が坂上田村麻呂の副将軍として日高見国へ遠征したことから、百済王氏の一部かその縁者が北上盆地に定住し、岩手県南部各地に現在でも百済姓を吊乗る者が散見される。
全体としては近畿から福岡にかけての瀬戸内海沿岸に多い。

陸奥国(むつのくに)は、明治以前の日本の地方区分である国の一つである。範囲は本州の北東端にあたる今日の福島県、宮城県、岩手県、青森県と、秋田県北東の鹿角市と小坂町にあたるが、明治時代初期に行われた分割によって青森県と岩手県二戸郡にかけての地域に縮小された。
奥州(おうしゅう)とも呼ばれた。延喜式での格は大国、遠国。

百済王 敬福(くだらのこにきし きょうふく, 697年 - 766年)は日本に亡命した百済王族の子孫。749年陸奥守在任時に陸奥国の小田郡から黄金が発見されたことで知られる。
また橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱の鎮圧にも功績があった。官位は従三位刑部卿に昇っている。

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